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(もう、何か言いなさいよ……) 床についてから約十分。 眞一郎が眠っていないのは分かっている。 背後でたまにモゾモゾと蠢く気配の主は、きっと自分と同じことを考えているに違いない。 …………このまま眠ったら、明日の朝、たぶん喧嘩になってしまう………… 仲上眞一郎と湯浅比呂美は、はっきり言って素直な性格とはいえない。 本心とは真逆の行動をとることなど、日常茶飯事なのだ。 最初のボタンを掛け違えれば、元通りに修復するには、かなりの時間を要してしまう。 比呂美はそれを、《過去の経験》から嫌と言うほど理解していた。 それに、こうなった経緯はどうあれ、《初めてのお泊り》には違いないのだ。 しかめっ面で睨み合う、なんて最悪の目覚めは、絶対に迎えたくない。 (何でもいいの。何か話してよ) きっかけが欲しい。 そう比呂美は思った。 二人が素直に口を開くことが出来る…きっかけが…… ………… ドガアアアアアアァァァァァァン!!!! 「きゃああああああああッッッ!!!」 その凄まじい音が、台風により副次的に発生した落雷の音であることは分かっていた。 しかし、頭で分かっていても、思わず金切り声をあげて飛び起きてしまう……それが《女の子》というものだ。 「うおっ、凄ぇ音。 かなり近いな」 釣られて飛び起きた眞一郎が、これまた《男の子》らしい淡白な反応を見せる。 海岸の方に落ちたか?などと雷を楽しむような眞一郎の声に、ゴロゴロという地鳴りのような音が重なった。 その直後に窓の外がストロボのごとく発光すると、間を置くことなく、電気の塊が地面に叩きつけられる轟音が響き渡る。 (光ってから落ちるまでの間隔が短いってことは、雷の中心は真上にあるんだ……) 身体を縮こまらせながら、比呂美は脳内にある雑学的知識を検索して気を紛らわせようと試みたが、それは無駄な努力だった。 なにをしてみたところで、《怖い》ものは《怖い》!! 幼少の頃ほどではないが、本格的な……そう、頭の上を直撃するようなヤツは、やっぱり《怖い》し《嫌い》だ。 (あぁ、どうしよう……どうしよう!) 雷が……その原因である台風が通り過ぎるまで、震えているしかないのだろうか。 比呂美の心が恐怖と諦めに満たされたその時、眞一郎の両腕が静かに伸び、小刻みに揺れる身体を抱きしめた。 ※
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前:ある日の比呂美16 「うぃっす!」 電源の入っていない自動ドアを手で開けて、『あいちゃん』の店内に足を踏み入れると、そこに店主の姿は無かった。 代わりに調理場からこちらに仏頂面を向けてきたのは…… 「俺の新車に傷、つけなかっただろうな」 野伏三代吉の恨みがこもった『視線』と言う名の槍が、鋭く全身を突き刺してくる。 (怒ってるなぁ。 まぁ当然か) と内心呟きながら、開店準備に追われる三代吉を横目に、眞一郎は頭を掻きながらカウンター席に陣取った。 「あ~ ……悪ぃ、ハンドルがちょっと……」 「なにぃぃ!?」 学校に到着するとすぐ、眞一郎は自転車を校門脇に乗り捨てて、一目散に体育館へと疾走してしまった。 当然、スタンドを使って立て掛ける、などという気の利いた作業がなされる事も無かった訳で…… 必然的に新品の自転車は随所に擦過傷を負い、無残な姿を『あいちゃん』の裏手に晒している。 「お・ま・え・なぁ~!!」 「だから悪かったって。今度、埋め合わせするからさ」 このとおり、と拝むようなポーズをとる眞一郎に呆れたのか、三代吉はそれ以上詰め寄ってくることはなかった。 「俺の計画がメチャメチャだぜ」 などと愚痴りながらも、三代吉は冷蔵庫からコーラを引き出し、慣れた手つきで栓を抜く。 冷えた瓶をドンと眞一郎の目の前に突き出すのと同時に、彼は別の詰問を始めた。 「で? 何だか知らないけど……間に合ったのかよ」 「! …………あぁ」 ニコッと笑みを返しながら、コイツはいつもこうだな、と眞一郎はあらためて思った。 ……三代吉は……本当は自転車の傷なんか心配しちゃいない。 眉間にシワを作っていたのは、きっと自分の…………いや、自分と比呂美の心配をしていたからだ。 それでいて……入ってはいけない一線を自覚している気配りと優しさが……コイツにはある。 (さっきの比呂美と朋与の笑顔…… 見れたのは三代吉のお陰だよな) …………とてもありがたい、頼もしいと感じる。 ………… 「なんだよ、人の顔ジッと見て」 無言で視線を送る自分を『気持ち悪いヤツ』とでも思ったのだろうか? 拭き掃除をしていた三代吉の手が止まり、また憮然とした表情がこちらに向けられた。 「なんでもね~よ」と笑ってコーラを一気に煽り、口にするのは照れくさい感謝を、炭酸と共に押し戻す。 そして、しばらく二人で雑談に興じていると、二階につづく階段がトントンと軽快な音を立て始めた。 「あれ? 眞一郎、来てたんだ」 バンダナを頭に巻いた愛子が現れ、声を掛けてくるのと同時に、眞一郎もまた、片手を上げてそれに応える。 いつも通りの、何気ない受け答えに笑顔になる『接客仕様』の愛子。 ……だったのだが、カウンター内でのんびりしている三代吉の姿を見つけた途端、彼女の顔色が変わった。 「三代吉!あんた何やってんのよ!」 「へ? 何って??」 「夕方から団体さんの予約入ってるって言ったでしょ!! 倉庫から材料運んどいてって昨日頼んだじゃない!!」 やべぇ!忘れてた!と叫ぶやいなや、エプロンを大慌てで外し始める三代吉。 ラブラブサイクリングは無理だったか、と内心で笑いを噛み殺しながら、眞一郎はその背中を呼び止めた。 …………やはり……言うべき事は、言うべき時に言わなければならない……と思う。 「……三代吉……サンキューな」 今日だけのことではない。 今までの分と、そしてこれからの分。 おそらく、一生掛かっても返しきることが出来ない三代吉の友情…… 眞一郎は心の底から、何物にも代え難いその宝への感謝を、短い一言に込めて彼に送った。 何気ない言葉の中に自分の真意を汲み取ったのか、鼻を軽く擦って照れを隠し、「バカ野郎」と笑う親友。 その姿は、追い立てるように背中を押す愛子と共に、勝手口の向こうへと消えていった。 「さっさと行って来い! 三十分以内に帰ってくることッ!!」 「す、スイマセン、店長~」 間抜けな……でも、どこか温か味のあるやり取りが、視界の外から聞こえてくる。 眞一郎は三代吉に、胸中でもう一度「ありがとう」と呟いてから、戻ってきた愛子に視線を移した。 「ったく。出勤したら予定表を確認しろって言ってるのに。 ……で? 眞一郎はどうしたの?」 従業員の出来の悪さを嘆きつつ、店主は開店準備を引き継ぎながら話し掛けてくる。 「いや。 借りてたチャリを返しに来ただけなんだ」 そう短く告げて、カウンターに手をつき、腰を上げる。 他に用事は特に無いし、このあと比呂美と待ち合わせているので、のんびりもしていられない。 「それじゃ」と愛子に手を振ったところまでは良かったのだが…… ぐぅ~ 朝食以降、何も補給を受けていない胃袋がとうとう悲鳴を上げ、その叫びが愛子の耳に届いてしまった。 「何よ。 お昼食べてないの?」 「うん…まぁ…… 色々あってさ」 苦笑して去ろうとする眞一郎を呼び止め、愛子は鉄板に火を入れる。 完全に浮いていた腰を席に戻して数分待つと、香ばしい匂いを放つ今川焼きが三つ、眞一郎の前に差し出された。 「助かったよ。ホントは腹ペコでさ」 もう一本、追加されたコーラと共に、眞一郎は世界一の今川焼きで空腹を満たし始める。 愛ちゃんの焼くヤツは味が違うな、と世辞ではない世辞を口にしてみたが、愛子はまともに取り合ってはくれなかった。 ………… 「ねぇ、眞一郎」 黙って開店作業を続けていた愛子が、突然、こちらに目を向け口を開く。 「ん? なに??」 口の中いっぱいに今川焼きとコーラを詰め込んだ眞一郎に向かって、愛子は驚愕の一言をサラリと言い放った。 「あんた、また女の子泣かせてきたでしょ?」 「ぶっ!!!」 いきなりの……しかも弱点を正確に撃ち抜くような愛子の一撃に、眞一郎は思わず口にしたコーラを噴き出してしまった。 汚いなぁと顔をしかめながら、愛子は手元の雑巾でカウンターと眞一郎の口元を拭く。 「ゴメン…………でも、なんで?」 表情で『その通りです』と白状しながらも、眞一郎はそう訊かずにはいられなかった。 魔法使いでも見るような視線を向ける自分に、愛子は「『お姉ちゃん』を舐めんなよ」と見得を切って笑う。 「あんた、『あの時』と同じ顔してるもん」 そうキッパリと断言し、愛子はカウンターの向こう側から、自分を見下ろしてくる。 …………腰に手を当てて、踏み台代わりのビールケースに仁王立ちしている愛子お姉ちゃん………… …………あの時とはいつのことだろう……心当たりがありすぎて、どれか分からないな………… 『弱みを握られた弟』的な思考が、ショックで麻痺しかけた脳みその中をグルグルと巡る。 どんな返事をしたらいいのかと困っていると、愛子は満面の笑みのまま、拳骨を自分の脳天に落としてきた。 「いてっ!」 「まったく……アタシと乃絵ちゃんだけかと思ってたのに」 やれやれ、と呆れて肩をすくめ、「あんたはナチュラルに女を泣かせ過ぎ」と説教を垂れる愛子。 だが『お姉ちゃん』はそれ以上、事の次第を深く突っ込んで訊いてこようとはしなかった。 ただ一点だけ、「比呂美ちゃんは知ってるの?」と冗談の混じらない鋭い声で重要な事を問い詰めてくる。 「知ってる。 ……全部……知ってる」 真面目な質問に同じ真剣さで返答をすると、愛子は納得したらしく、「そう」とだけ呟いて話は打ち切られた。 ………… ………… 「ごちそうさん。 んじゃ俺、行くわ」 開店の邪魔にならないようにと、再び席を立った眞一郎を、愛子はまた呼び止めた。 自分の分は三代吉が取り返してくれたからいいけど、と前置きしてから、彼女は静かに呟く。 「乃絵ちゃんと……その娘の涙は無駄にしちゃダメだからね」 その言葉の重さに胸が詰まり、声が出ない眞一郎に向かって、愛子は「分かったの!」と念を押す。 眞一郎は、はにかんだ笑顔で「うん」と頷くのが精一杯だった。 そして「ありがとう」という感謝の気持ちを、『照れ』というオブラートに包んで口にし、店を後にする。 「また、おいでね」と背中に告げてくる愛子の声………… それが、比呂美の元へと向かう今の眞一郎にとっては、温かく、貴重で、かけがえの無い物に感じられた。 比呂美は、眞一郎と待ち合わせの約束をした海岸沿いの防波堤に腰掛け、ひとりで海を見ていた。 三代吉に自転車を返しに行った眞一郎と別れてから、もうかれこれ一時間になる。 『あいちゃん』からここまでは大した距離ではないので、てっきり先に来ていると思ったのだが…… (シャワーと着替え。食事まで済ませた私より遅いって、どうなのよ?) そう胸の中で愚痴りながらも、比呂美は立腹しているわけではなかった。 ……たまには一人で……海を見ながら静かに物事を考えるのも悪くない……そう思う。 朋与のこと…… さっき聞かされた『おばさん』とお母さんの再会のこと…… そして眞一郎のこと…… 経験不足の自分の頭では、正確な回答を導き出せないのは承知しているが…… ……それでも……少しでも……噛み砕いて、呑みこんで、自分の血にしなければならない。 そうしなければ、支えてくれる優しい人たちの想いに、一生報いる事が出来ないのではないか、と比呂美には思えた。 ………… ………… 「!」 照りつける太陽の光と比呂美との間を何かが横切り、思索の海に潜っていた意識を、現実に引き戻す。 吸い寄せられるように視線を上向けた比呂美の瞳に映ったのは、空を舞う二羽の海鳥たちだった。 上昇気流に身を任せ、真上を旋回する姿…… それは自分とは無関係な存在であるはずなのに、何故か目が離せない。 「にゃあ」 そしてこれもまた、突然に左側から聞こえてくる猫の鳴き声。 いつの間にそこに現れたのか、見覚えのある小さなシルエットが、すぐ隣で空を見上げていた。 「ボー……ちゃん?」 呼び掛ける声に、また「にゃあ」と反応し、こちらに近づいてくる彼は、間違いなく朋与の飼い猫『ボー』だった。 「なにしてるの?」という比呂美の問いには当然答えず、腕に胴体を擦りつけて挨拶してから、再び離れていくボー。 忙しいから構ってやれないぞ、とでも言いたげに、ボーはまた空に……鳥たちに向かって鳴き始める。 …………何度も……何度も……空に向かって鳴き続けるボー………… それは今朝、眞一郎の部屋で目にした絵本の世界の再現だった。 続きを……結末を教えてもらっていないストーリー……その答えがここにあるのではないか。 何故か訳もなくそう思え、比呂美はボーと海鳥たちの『会話』に意識を傾け、耳をすませた。 ………… バサッ! 何度目かのボーの叫びに応え、海鳥たちが旋回を止めて舞い降りてくる。 ボーの頭上を掠める様に飛び、また大空へと舞い上がっていく鳥たち……その雄大な飛翔が目に焼きつく。 ……それは決して威嚇などではなく、ボーの魂を、どこか別の場所に誘おうとしている様に、比呂美には見えた。 「にゃあ!」 ボーもそれを理解したのだろうか。 彼は鳥たちの軌跡を追うようにして、比呂美の側を離れ駆け出していく。 …………その先の待つ何か……誰かを求めて飛翔するように………… ………… ボーの姿が視界から消えた時、比呂美は全ての答えを掴んだような気がした。 そして自分も、正体が分からない何かに促されるように立ち上がる。 全身に吹き付けてくる風を正面から受け止めて…… 両腕と両脚を一杯に拡げて……比呂美は思う。 (飛ぶんだ!!) ……『飛ぶ』…… それはあの石動乃絵が口にしていたフレーズ。 そして、言葉の中に込められた意味が……今の自分には良く分かる。 接点など無いと思っていた少女の想いが、眞一郎を通して、いつの間にか己の血肉になっているのを感じる。 ……飛ぶ……みんな…いつか飛ぶ…… 絵本の中のボーも、朋与も、『おばさん』も、……そしてたぶん、石動乃絵も…… …………自分の道をみつけて、羽ばたいていく………… ……そして…… (私も飛ぶ! 私のみつけた空を!!) それはみんながくれた空。 眞一郎の空。 どこまでもつづく蒼の中を、自分は彼と二人で羽ばたきたい! ………… ………… 洗いたての髪を潮風に泳がせながら、比呂美は防波堤の上で心と身体をいっぱいに開放する。 ようやく現れた眞一郎がその後ろ姿に引き込まれ、立ち尽くしている事にも、しばらく気づくことはなかった。 「飛べそうか?」 後ろから掛けられた声に、比呂美はハッと肩越しに振り向いた。 いつからそこにいたのか……眞一郎の笑顔が、少し離れた場所からこちらを見ている。 「…………」 「……なんか言えよ」 口走ってしまったポエムっぽい質問に返答がもらえず、眞一郎は困ったような表情を作った。 だが比呂美の顔は、眞一郎と同じ透明な笑顔を反射するだけで、すぐにまた海へと向き直ってしまう。 視線を風に戻し、無言で世界に向き合う自分の背中を、比呂美は眞一郎への答えにした。 (……感じて……眞一郎くん) ………… ………… 今の自分の所作を目にして、『飛ぶ』という単語を連想した眞一郎…… 視界の外にいる彼は、きっと石動乃絵を思い出しているに違いない…… ……朋与のことも、思い出しているに違いない…… (石動乃絵と黒部朋与が、仲上眞一郎の中にいる。大事な何かを…形作っている……) かつてはそう考えるたびに、胸の奥に黒い炎が燃え上がり、嫉妬で身を狂わせていた。 自分に出来ないことを眞一郎にしてやれる……彼女たちが憎かった。 でも、今は違う。 あなたの涙は奇麗だ、と言ってくれた石動乃絵の想い…… 眞一郎を包んであげて、と言ってくれた黒部朋与の想い…… そのどちらもが、身体の奥底に根を張っているのが、ハッキリと分かるから。 ……あの頃の『湯浅比呂美』は、もういない…… 眞一郎と同じように、彼女たちと接することで、自分は変わった……飛ぶことができた。 二人の想いを受け入れて、力に出来た今、不の感情が心を支配することは……もう無い。 …………そして………… 風に向かう自分の背中を見つめてくれる眞一郎は……その事を全てを理解してくれている…… ……自分の……湯浅比呂美の全てを………… ………… ………… 比呂美は広げていた手足を畳むと、振り向いて防波堤から飛び降りた。 視線を絡ませてくる眞一郎の前に立ち、「わかった?」と悪戯っぽく小首をかしげて笑ってみる。 「……うん」 口中で小さくそう言った眞一郎は、比呂美の示した答えに満足しているようだった。 感極まった様子の眞一郎に、「帰ろう」と呟き、ひとり歩き出す比呂美。 「あ……待てよ、比呂美」 背後から呼び止めるその声には、聞こえないフリをする。 そして比呂美は、記憶の底に沈んでいた、ある唄を歌い始めた。 ♪す~ぐそこ~にアブラムシ~♪ ♪眞一郎~の靴~の底にもアブラムシ~♪ 後ろをついてくる眞一郎……その心が震えるのを明確に感じるが気にしない。 ……蒼天に向けて口ずさまれる……うろ覚えのメロディ…… 何も含むところはない。 それは眞一郎にも分かっていると思う。 ただ……今はこの唄を……彼女の唄を歌いたい。 そんな気分だった。 ………… 眞一郎を子分のように引き連れ、比呂美は防波堤沿いの道を晴れ晴れとした顔で、歌いながら進んでいく。 (……気持ちいい……) 石動乃絵もこんな気持ちだったのだろうかと思い、声のトーンを上げたその時、後方から突然に爆笑が巻き起こった。 「ぷぷっ……ぶはははははははは!!」 響き渡る笑い声に心の高揚をかき消され、比呂美の眉間にシワが刻まれる。 振り返ってみると、眞一郎が緩んだ目元に薄っすらと涙を浮かべながら、呼吸困難に陥ったかのように身悶えていた。 「な、なによ!」 「くく……わ、悪ぃ……。 でもお前……唄だけはヘタクソだよな……ププッ……」 何とか押さえ込もうとして叶わず、眞一郎はまた大口を開けて笑い出す。 比呂美は顔を真っ赤に紅潮させながら、腹筋に手を添えて苦しむ眞一郎を置き去りにして再び歩き出した。 (ホントにもうっ! 空気読めないのは直らないんだからっ!!) 唄が下手なのは、言われなくても自覚している。 麦端高校で完璧少女の名を欲しいままにしている自分の、唯一の弱点が『コレ』だった。 (歌手になりたいわけじゃないんだから、別にいいじゃない!) そう。 なりたいモノは他にある。 ……湯浅比呂美がなりたいモノは、眞一郎の……仲上眞一郎の………… ………… 脳天から怒気という湯気を発散しながら、思考が別の結論へとスライドしかけた時だった。 「その唄、まだ一節つづきがあるんだぜ」 もう笑っていない眞一郎の声が、耳朶の裏に響く。 それがどうしたのよ、と声を荒らげながら比呂美が脚を止めるのと同時に、眞一郎の喉が高らかに鳴った。 「♪眞一郎~の心の底に……『湯浅比呂美』!!♪」 町じゅうに聞こえるような大声で叫ばれたそれは、先程とは全く逆の意味で、比呂美の顔を耳まで赤く染める。 「……な……」 感激と羞恥にまみれて声が出ない比呂美の真横まで、眞一郎は一気に距離を詰めてきた。 そして勢いに任せて手を取り、指をしっかり絡めると、比呂美の身体を引っ張るようにして、眞一郎は歩き出す。 ……繋いだ手から……指先から……眞一郎の想いが、熱に形を変えて伝わってくる…… 比呂美は自分と同じ様に、頬を赤らめている眞一郎の横顔を眼に焼き付けながら、握る手の平に力を込めた。 眞一郎がそれに反応し、視線をこちらに寄こす。 「今朝の絵本の…つづきだけどさぁ……」 そう言いかける眞一郎の言葉を、比呂美は首を横に振ることで止めた。 結末はもう知っている。 眞一郎の描きたい物語なら……ちゃんと分かっている…… 瞳の光で紡いだ想いは、眞一郎の心に届いたらしい。 黙って頷き、話を途中で打ち切ると、仲上の家へ向かう歩速を少しだけ早める眞一郎。 比呂美は恋人に歩くスピードを合わせながら、帰路の先で待っている家族の顔を思い浮かべた。 今日は着物の着付けレッスンのあと、新しい料理の作り方を教わる約束をしている。 《今夜は…… そうね。ブリ大根にしましょう》 今朝、『おばさん』が嬉しそうに言った言葉…… それが頭に浮かび、比呂美は顔をほころばせた。 「?? 何だ?」 「ううん、何でも。 おばさん、気が早いなぁ~って」 不思議そうな顔で見つめてくる眞一郎を横において、比呂美は『ブリ大根』が持つ意味を考える。 (あ……そういえば……) ……女の子がお嫁に行く時、ブリ大根を食べると幸せになれる………… 幼い頃、この地方特有の素敵な風習を教えてくれたのは、確か母だったなと、比呂美は懐かしく思い出していた。 [おわり]
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前:ある日の比呂美2 翌日、眞一郎は最悪な気分で朝を迎えた。 時計を見ると、まだ起床時刻より三十分も早い。 だが、眠る事が出来ないというのに、これ以上ベッドに入っているのは苦痛でしかなかった。 気だるさの残る体を起こして目覚ましのスイッチを止め、一階の洗面所へと向かう。 歯を磨いている間、眞一郎は鏡に映る情けない男の顔を、苛立ちをもって眺めていた。 コイツをぶっ飛ばしてやりたい…… そんな衝動に駆られる。 (……また同じ事を繰り返してる……俺は……) 比呂美の涙を拭うと誓ったくせに…… 誤魔化して……また泣かせて…… 欲望に負けて…… その上……錯乱して…朋与のことまで…… (…………なにが……『おぎゃあ』だよ……) 自分は何も変わってない……生まれ変わってなんかいない…… 歯ブラシを動かす手が止まり、自分への怒りが身体を震わせる。 眞一郎が拳を握り締め、鏡の中の自分を殴りつけようとしたその時、ドアの向こうから母の声がした。 「眞ちゃん、いつまでやってるの? ご飯食べちゃいなさい」 「……あぁ……分かってる……」 口をすすいで口内の汚れと一緒に苛立ちを吐き出した眞一郎は、歯ブラシを放り投げると居間へ向かった。 今朝の食卓に比呂美は現れなかった。 母の話では、部活が忙しくなるので、暫く食事を食べに行けないと電話があったらしい。 バスケ部の練習時間が、そう都合良く変わるはずはない…… その話が比呂美の嘘である事はすぐに分かった。 (……でも……当然だよな……) 自分の顔など、比呂美は見たくもないだろう。当たり前だ。 モヤモヤした気持ちを抱えたまま登校し、校門をくぐる眞一郎。 ……どうしてこんなことになってしまったのか…… (俺の中に…………朋与への甘えが残ってる……からか……) 比呂美へのプレゼントを買おうと思ったとき、真っ先に朋与の顔が浮かんだのは何故か。 電車の中で、絡めてきた朋与の指を払い除けず、応えてしまったのはどうしてか。 比呂美の身体に触れたとき……朋与の肌を思い出してしまったのは…… (……朋与を……比呂美より……) 逃げ出して、混乱して、思わず掛けた電話で口走った言葉。「ふざけんなっ!」と一喝された、あやふやな気持ち。 そうなのだ。『仲上眞一郎』が愛しているのは『湯浅比呂美』……この事実が揺らぐことは決して無い。 夕べ眠れなかったのも、身体と心を震わせて泣く比呂美の後ろ姿が、瞼の裏に浮かんで消えなかったからだ。 比呂美を愛している。朋与の言うとおり、『仲上眞一郎』の一番は、変わる事無く『湯浅比呂美』だ。 ……なのに……この朋与への気持ちは……一体…… ………… 思いつめた顔で生徒用玄関へと向かう眞一郎の横を、覚えのある香りが通り過ぎ、思考を中断させる。 ふわりと風に舞う栗色の長髪と薄紫のコート。 それをまとった少女は、眞一郎に一瞥もくれる事無く、足早に自分の下駄箱のある方へと消えた。 「…………」 眞一郎の脚が、思わず止まる。それは比呂美に無視されたからではない。 (……あの顔……) 凍りついた横顔…… 一年前の『あの』顔に、比呂美が戻ってしまった…… しかも、そうさせているのは誰あろう自分なのだ…… ………… 「うぃ~っす、眞一郎」 眞一郎の姿を見つけた三代吉が肩を叩いて挨拶してくるが、すぐに反応出来ない。 「? ……どした?」 三代吉のセンサーは敏感だ。自分の大切な人たちの小さな変化を、彼は決して見逃さない。 (まずい)と咄嗟に思った眞一郎は、「何でもない」と短く言って、自分の下駄箱へ向かった。 「地~べた。ほら、ご飯だよ」 朋与が赤い実を鶏小屋の中に投げ入れると、地べたは喉をコッコッと鳴らしてそれをついばみ始めた。 鶏小屋の管理は用務員のおじさんがしているので、本来なら生徒が地べたの世話をする必要は無い。 だが、朋与と比呂美、眞一郎の三人は、麦端を去っていった乃絵との約束を守って、昼休みに交代でここを訪れていた。 赤い実は昨年の秋に、三人でストックした物である。 (楽しかったな……あの時……) まるで子供の頃に戻ってしまったかの様な素敵な時間…… 木に登り、枝を揺すって実を落とす眞一郎…… それをレジャーシートを広げて、比呂美と二人で受け止めた…… しゃがんだ姿勢で地べたの様子を見ながら、思い出にふける朋与。 ……でも……今は………… ………… (……乃絵……アンタならどうする?……) 助けて欲しかった。 乃絵なら、自分が今、何をするべきなのか、どう行動するのが正解なのか教えてくれる気がした。 しかし……それは叶うはずもない。 それに、石動乃絵ならば「自分の事は自分で決めて」と言うに違いない。 乃絵自身が苦しみの末に、自らの道を選択したように……朋与にも、そうするよう求めてくるに違いない。 《本当は分かってるんでしょ? 自分がどうすればいいか》 いつの間にか、こちらを見ていた地べたと目が合った瞬間、乃絵にそう言われた気がして、朋与はハッとなった。 地べたは朋与から視線を逸らさず、決断する事を要求してくる。 朋与は何かを吹っ切るように、フッと笑った。 (……うん……分かってる。……分かってるよ) 分かっているから……自分は今、この場所にいる。『あの時』選択した道を……貫き通すために…… ………… ………… 近づいてくる足音に気づき、朋与は立ち上がった。 振り返った視線の先に、虚ろな表情でこちらにやってくる比呂美の姿が見える。 鶏小屋の前に朋与がいることに驚き、比呂美の脚がピタリと止まった。 今日は比呂美が地べたに餌をやる日で、朋与はそれを待ち構えていたのだ。 半開きだった唇がキュッと噛み締められると、比呂美の表情は見る見る険しくなっていく。 ……まるで汚いモノでも見るかのように…… クルリと身を翻し、もと来た道を戻ろうとする比呂美に向かって、朋与は叫ぶ。 「逃げんのっ!!」 痙攣するように肩を震わせて振り向く比呂美。その目尻には醜い嫉妬がシワとなって浮かび上がっていた。 憎悪に燃える瞳が「誰が逃げるか」と訴えてくる。 睨み合ったまま互いの距離を詰めて相対する二人の少女。 手が届く位置まで二人の身体が接近した時、朋与の右手が空を切って、比呂美の左頬を張った。 「!!」 身体がよろける様な強い衝撃ではなかったが、予想外の先制攻撃を受けて、比呂美は出鼻を挫かれた。 「昨日のお返しだよ。私、比呂美に殴られるようなこと、してないから」 「な…!!」 思わず言葉を失う、毒針を突き刺すような朋与の口振り。 比呂美は体内を駆け巡る血液の温度が、一気に沸点まで上昇していくのを感じた。 敵意むき出しの朋与の視線を真正面から受け止めながら、比呂美は腹わたが煮えくり返る思いだった。 なぜ、自分が叩かれなければ……責められなければならないのか! 糾弾されるべきは自分ではなく、目の前にいる朋与だ!人の男を寝取った『この女』だ! 「開き直るつもりっ!!」 負けてたまるか、という気持ちが、比呂美の声をついつい大きくする。 「私が眞一郎と寝たのは、彼が乃絵と付き合う前よ! アンタにとやかく言われる筋合いはない!!」 校舎から離れた鶏小屋の前ということもあり、朋与の張り上げる声も、比呂美のそれに釣られて大きくなる。 確かにそうだ。眞一郎と朋与が関係を持った時、自分は眞一郎の『同居人』でしかなかった。 しかも、形だけとはいえ石動純と付き合っていた時期…… 文句を言うのは筋違いである。 だが、朋与は自分の真意に気づいていたはず…… 気づいていたのに、眞一郎を!! 「そんな理屈!!」 認められなかった。眞一郎は……眞一郎の全ては自分の…『湯浅比呂美』のモノだ! ……過去も、今も、未来も…… 欠片だって他人に渡したくない! 「傲慢ね…… そんなの『愛』じゃない」 朋与の指摘は真理を突いていたのだが、比呂美は聞こえないふりをして話を逸らした。 「……横から割り込んで…………セックスするのは『愛』だっていうの?……笑わせないで!」 比呂美の唇が皮肉に歪み、ククッと下品な声が漏れ出した瞬間、朋与は顔を真っ赤に紅潮させて叫んだ。 「笑うなッッ!!!!」 内に秘められた殺気が音の形をとって、比呂美の全身に叩きつけられる! 「!!!」 ……殺される…… 本気でそう感じた比呂美の身体は、硬直して動けなくなった。 「私の……私と眞一郎の大切な時間を馬鹿にすることは許さないっ!……たとえ比呂美でもっ!!!」 「…………」 比呂美は改めて思い知らされた。朋与の眞一郎に対する愛情の深さを。 負けている、とは思わない。……でも……朋与の『愛』も本物なのだと認識することは、比呂美には苦痛だった。 黙り込んでしまった比呂美に、今度は朋与が冷笑を浴びせかける。 「……もう信じられないんでしょ?……眞一郎のこと……」 怖じけて逸らしていた視線を戻すと、朋与は失望と侮蔑を混合させた鋭い眼で、こちらを睨んでいた。 「…………眞一郎は私が貰う」 「!!!」 好きだ、愛していると口では言いながら、その実、相手を疑ってばかりの女に、眞一郎は渡さない。 自分以外の女に触れた……その程度の事で気持ちが揺らぐ女に、眞一郎は譲れない。 「……その程度って……」 「『その程度』よっ!!!」 セックスなんて愛情表現の一手段に過ぎない。そんな物に拘って、本質を見失うなんて馬鹿げている。 そう朋与は言い切った。 「……でも…………でも……」 比呂美も、朋与の言いたい事が理解できない年齢ではない。 だが……理解はできても納得できない…… 比呂美の中の『少女』の部分が、そう訴えてくるのだ。 「だから…………アンタのそのガキっぽい価値観に殉じてあげるって言ってるのよ」 『初めて』を捧げ合った二人が結ばれるのだ、文句は無いだろう。 そう宣言すると、「部活では普通にしててよね」と吐き捨てるように言って、朋与はその場を離れようとする。 「ま、待って!!」 顔面を蒼白にし、ガタガタと膝を震わせながら、比呂美は朋与を呼び止めた。 「…………嫌……嫌よ……」 背中に突き刺さる悲痛な声に、朋与は脚を止めたが、振り向こうとはしない。 冷徹な拒絶のオーラを発散する朋与…… その彼女へ向けて、比呂美は懇願する。 「……盗らないで……眞一郎くんを…………盗らないで……お願い……」 それだけ言うのが精一杯だった。滝のように溢れてくる涙を隠そうと、比呂美は顔を伏せる。 ……朋与の鼓膜を震わせる、比呂美の慟哭…… しかし、朋与はそれに構う事無く、氷の視線で一瞥すると、とどめの一言を浴びせかける。 「甘ったれないで。……私は二度も道を譲るほど、お人好しじゃない!」 「!!!」 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る中、絶望して立ち尽くす比呂美を置いて、朋与は立ち去った。 朋与に会って話しをしなければ…… 眞一郎はそう思った。 (顔を見て話さないと……この気持ちが何なのかハッキリしない) 昼休みに校内を捜してみる。 だが、地べたの餌やり以外の日、朋与がどこで何をしているのか、眞一郎は知らなかった。 ……間が悪い…… 朋与を見つけられない眞一郎の頭に、乃絵の時と同じ、見苦しい言い訳が浮かぶ。 だが、比呂美が居そうな所には顔を出し辛いし、そうなると接触のチャンスは自然と少なくなってしまう…… (…………理由をつけて逃げたいんじゃないのか……俺は……) 空しい自問自答…… 結局、眞一郎は放課後も学校内で朋与に会うことは出来ず、不明瞭な想いを抱えたまま、家路に着いた。 オレンジ色に染め上げられた海岸通りを、一人歩く眞一郎。 その足取りは内心の陰鬱さを鏡に映したように、暗く重い。 「帰宅部のクセに、帰りが遅いんじゃない?」 突然、前方から掛けられた声にハッとなる。 防波堤に腰掛ける線の細いシルエット。金色の逆光に縁取られて顔は良く見えないが、誰なのかはすぐに分かった。 その影は「よっ」という元気のいい掛け声と共にコンクリートから飛び降りると、一瞬で眞一郎の目前まで距離を詰める。 「……俺を……待ってたのか……」 「うん。眞一郎を待ってた」 黒部朋与の笑顔…… 普段と変わらない微笑が、昨日までとは違う何かを孕んでいる…… 朋与がこの一年、頑なに拒んできた『眞一郎』という呼び方を使ったことに、その『何か』が込められている気がした。 「昨日の電話……その……」 悪かった…… いきなり訳の分からない事を言って…… 眞一郎はそう言いかけた。 だが、朋与は戸惑いを見せる眞一郎に喋る間を与えず、先に口を開く。 「私と付き合ってよ」 「……え……」 いきなりの告白に固まってしまった眞一郎に、朋与は「驚くことないでしょ?」と笑い、言葉を続けた。 もう比呂美に遠慮なんかしない。だってお互いに気持ちが分かってしまったのだから。 『黒部朋与』は『仲上眞一郎』が忘れられない。『仲上眞一郎』も『黒部朋与』忘れられない。 ……それはつまり…… 「『終わってない』んだよ、私たち……」 「……『終わってない』……?」 オウム返しに訊いてくる眞一郎から視線を外し、朋与は繰り返す。 「そう……『終わってない』の…… だからこれは、やり直しじゃなくて……あの時の続き」 一瞬だけ絡ませてきた朋与の瞳の奥に、喜びや期待とは別のモノが隠されていることに、眞一郎は気づいた。 そして、その正体に思い至った時、『終わっていない』と言った朋与の言葉の意味と、自分のあやふやな気持ちが繋がる。 (そうか……そういうこと……か……) 行く道を見失いかけていた眞一郎の両眼に、また光が宿った。 ……それを敏感に感じ取った朋与の顔が、もうすぐ訪れるであろう現実を予感して、僅かに曇る…… ………… ………… 「明日の夕方、家に来て」 その朋与の誘いに、眞一郎は迷い無く「分かった」と即答する。 明日は『あの日』と同じ曜日…… 朋与の部屋は、あの時と同じ二人だけの空間になる。 そこで朋与が眞一郎に何を望むのか、何をしなければならないのか……もう分かっている。 飛ばなければならない…… 本当に大切な人と、ちゃんと向き合うために。 何も変われない『仲上眞一郎』のままだけれども…… 自分のやり方で、また……飛ばなければならない…… ……信じてくれる瞳が、そこにあるのだから…… ………… 「……それじゃ、明日ね」 眞一郎に背を向けて歩き出した朋与の表情からは、明るい声とは裏腹に、先程までの笑顔が嘘のように消えていた。 「うん」と短く答えた眞一郎は、朋与の姿が見えなくなるまで、その場所で彼女を見送る。 暫くして、再び家路に着いた眞一郎の足取りは、そこへたどり着いた時とはまるで違う、力強いものになっていた。 つづく ある日の比呂美4
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前:ある日の比呂美9 顎と首筋にキスの雨を降らせながら、眞一郎の右手が少しずつ、『最後の壁』を秘部から遠ざけていく。 横縞模様の小さな布切れが膝まで下ろされたところで、比呂美は下肢を曲げて、自らそれを取り去った。 「…………」 何も言わずに、その先の行為に進むことを宣言してくる眞一郎の瞳。 比呂美は唇を重ね、そのまま流れるように眞一郎の肌をついばむことで承認を与える。 緩い力で閉じられた股間に、ゆっくりと侵入していく眞一郎の手の平。 比呂美の陰部は華奢な身体に比例する小ぶりなサイズで、大きくはない眞一郎の手でも、全体を包むことが出来た。 先程のお返しとばかりに、眞一郎は比呂美の外陰部をゆるゆると擦り上げはじめる。 「……ん……」 初めて局部に受ける異性からの刺激に、比呂美の唇は眞一郎の肌を味わう作業を中断させられてしまう。 少しずつ熱と潤みを帯び始め、眞一郎の動きと温かさに反応して一気に開花していく肉の華。 「はああぁぁっ!!」 中指だけが角度を変え、露出を始めた陰核に強く触れた瞬間、快感という名の電流が比呂美の脊髄を駆け抜けた。 それに連動する形で収縮した膣の筋肉が、内部に溜まった蜜を押し出し、眞一郎の指をさらに湿らせる。 「比呂美……」 新たに潤滑油の補給を受けた眞一郎は、外陰を完全に割り開き、さらに『奥』への侵攻を目指す。 「……しん…いちろう…くん……んああ…あぁ……」 嬌声を堪えることもなくなり、眞一郎の指技と乳房を這い回る舌技に翻弄される比呂美。 もはや比呂美は、眞一郎に愛撫を返すことが出来ない状態になっていた。 ……縦横無尽に自分の体表面で暴れまわる眞一郎の指と舌…… それらはまるで、湯浅比呂美の取り扱い方を熟知しているかのごとく、的確に弱点を狙ってくる。 (……なんで……なんで、私の気持ちいいトコ……分かるの?……) 右の乳房を揉みしだく、しなやかな左手…… 左の乳首に吸い付く唇と、先端を擦るように舐める舌先。時折、乳輪を程よい強さで噛んでくる前歯…… そして、それらとは全く別の意思があるように、小陰唇とその奥の柔肉を解し続ける右手…… (……あぁ……なに?……なにかっ…………来る……) 興奮で桃色に染まっていた前頭葉の辺りに、体験した事の無い感覚が走る。 眞一郎を想いながらしていた自慰の時とは違う……一段上の悦楽の予感…… 未知の感覚に恐怖を覚えた比呂美は、眞一郎の肩に爪を食い込ませて、愛撫を止めようとする。 しかし眞一郎は比呂美の気持ちを察知しながら、右手の動きを止めようとはなかった。 「……し…眞一郎…くん…………いや……」 「大丈夫。そのまま……感覚を追って。……怖くないから……」 初めて見る……自信に満ちた眞一郎…… ……彼には自分を『別の世界』に導く力がある…… そう比呂美は確信した。 …………なら、信じればいい………… また眼を閉じると、比呂美は眞一郎の頭を自分の乳房に埋め込むようにして抱きしめた。 眞一郎は口撃と左手の愛撫を止め、右手の動きに全神経を集中し始める。 更に立体的になった指技に連動して、大きくなっていく淫靡な水音。 「……あ…あ…あぁ…あぁ……」 陰部から発せられるクチュクチュという音と、自分の喉から漏れ出す呻きが止められない。 ……恥ずかしい…… とても恥ずかしい『湯浅比呂美』の本当の姿…… でも、眞一郎には見て欲しい。……そして…… この感覚の先にある場所に連れて行って欲しい…… 「眞…一郎くんっ!……私…………あぁッッ!!……あああぁぁッッ!!!」 眞一郎の髪を捉えていた指先に力が込められ、『頂』が近いことを知らせる。 乳房で口を塞がれて喋ることができない眞一郎は、無言のまま、右手に己の意志を送り込んだ。 不規則に陰唇を弄っていた指が動きを緩め、中指が膣の入口に狙いを定める。 菊門と膣の間……会陰部を優しくなぞってから、ゆっくりと膣口に埋め込まれていく指先。 その刺激に比呂美が「んっ」と短く声を上げるのと、眞一郎が右腕を震わせるのは、ほとんど同時だった。 眞一郎は腕の筋肉を小刻みに振動させて、細かな波動を比呂美の局部に送り込む。 「…ふぁっ!……はっ…はああッッ!!……んうっ…ああああぁぁぁッッッ!!!」 抜かりなく、包皮の上から陰核に添えられた眞一郎の親指が快感を二重のものとした。 全身を包んでいた炭火の様な温かさは消え、代わりに痺れにも似た快感電流が、神経組織を駆け巡る。 「ッッ!!!!!」 眞一郎の名を呼ぶことすら叶わない……強烈な……未体験の悦楽…… 比呂美は眞一郎の頭を拘束したまま身体を痙攣させ、襲い掛かってきた白い闇に、その心を沈めていった。 比呂美の強烈なヘッドロックから解放された眞一郎は、はぁ、と大きく息をついた。 (……窒息するかと思った……) そう心の中で呟き、顎を突き出して断続的に身体を痙攣させている比呂美を見下ろす。 閉じあわされた大腿には、まだ自分の右手が挟み込まれたままだった。 刺激を与えないように、ゆっくりと手を引く抜く。 「んんんんッッ!!」 僅かな擦り上げにも敏感に反応し、全身をくねらせる比呂美。 眞一郎は、比呂美の呼吸と痙攣が治まるのを待って、声を掛けた。 「比呂美?……大丈夫…か?」 肩に手を伸ばしかけるが、比呂美はそれを避けるように、横を向いて身を縮こまらせた。 やり過ぎてしまったのだろうか。……嫌な思いをさせたのではないか、と不安になる…… ………… こちらを向いてくれない背中を見つめながら、気持ちの沈み込みを実感しはじめた時、比呂美が口を開いた。 「…………イッちゃった……」 「え?」 声が小さすぎて、よく聞こえなかった。思わず「なんだって?」と聞き返してしまう。 それを『眞一郎が意地悪をしている』と思ったのだろう。比呂美は声を荒げて怒鳴った。 「イッちゃった、って言ったの!…………馬鹿……」 眞一郎に背を向けたまま、比呂美は頭の下に敷いていた枕を抜き取り、後ろへ向かって投げつける。 ノールックパスに慣れているせいか、比呂美の『シュート』は柔らかな音を立てて、見事に眞一郎の顔面に命中した。 「いてっ」 大き目の絆創膏が張られた額の傷が少し痛み、もう一人の少女から叱責を受けたような気になる眞一郎。 「しっかりしろ!」と叱ってくれる彼女に、眞一郎は心の中で「大丈夫だ」と答えた。 (……そうだ……自信を持ってすればいいんだ……) 決意をあらたにする眞一郎の視線の端に、小さな真四角の袋が捕らえられる。 まだこちらを向かない比呂美の後頭部……そのすぐ側にある、薄いブルーの小袋。 (…………) 比呂美が入浴している間に、自分の財布から取り出して、枕の下に忍ばせておいた避妊具に、眞一郎は手を伸ばす。 躊躇いなく封を切ると、その音に反応して比呂美の肩がピクリと震えたが、眞一郎は気にしなかった。 完全に力を取り戻した勃起に、手際よくスキンを被せ、準備を整える。 朋与との体験のあと、何度か自分で装着の練習をしたので、作業を手間取ることはなかった。 ………… 自分が何をしているか。これから何が始まるのか。……比呂美は気配で察している…… そう理由も無く確信した眞一郎は、「比呂美」と呼びかけて、その細い肩に手を置いた。 壁に向いたままの身体を、少し強引に自分に向けさせる。 「……あ…」 数分ぶりに再会した比呂美の顔には、繋がる期待と破瓜への恐怖が、複雑に絡み合って張り付いていた。 「……キス…して……」 眉間を曇らせたまま唇を差し出してくる比呂美に、舞い降りるような柔らかい口づけを送る眞一郎。 そのまま身体を移動させ、下半身全部を使って比呂美の下肢を割り開く。 「……ん……」 我が身に迫る『危険』を察知し、比呂美は繋いだままの唇から声を漏らした。 だが、眞一郎はそれには応えず、腰を完全に比呂美の股間に割り込ませ、勃起した陰茎を陰唇に押し付けてしまう。 「はぁあっ…」 再び始まった性器への攻撃に、比呂美はキスを解いて嬌声を上げた。 互いの腕で相手の上半身を拘束し、性器を擦り合わせて性感を高め合う二人。 「はぁ、はぁ、……ひ、比呂美ッ……」 比呂美の陰部は先程の潤みに加え、新しい温かな粘液を噴き出しつつある。 ……ほんの少し角度を変えれば、比呂美の『膣(ナカ)』に侵入することは可能であると、眞一郎には思えた。 (…………よし…) 言葉で伝えるなどという無粋な真似はせず、見つめることで自分の意志を比呂美に宣言する。 しかし、それを受け止めた比呂美の視線は、何か別の思いを秘めて眞一郎を見つめ返してきた。 怖いのか?と思わず訊きそうになる眞一郎。 だが比呂美は眞一郎が口を開くより早く、考え抜いた決意を音にした。 「眞一郎くん。……それ、とって……」 つづく ある日の比呂美11
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注意書き ttの世界観にない仕掛けを入れています。我慢できない人は読まないでください。 勢いで、ラフとして書いた、一発ネタです。細かい矛盾つぶしはしていません。 バイトシリーズの時間軸とは違い、独立した短編です。設定等も関連ありません。 時間的には、2年生(平成23年)の初夏あたりになります。 BX-01 比呂美の嫉妬(独立) (コンタクト、忘れちゃった…) そろそろ日が沈もうとする頃、比呂美は近所の商店街にケーキを買いに来て いた。 メガネもコンタクトも忘れてしまったせいで、少し離れた所がボヤけて見え ている。気をつければ支障はないし、部屋に戻るのも面倒だったため、そのま ま出てきてしまったのである。 比呂美の眼は、それほど良くはない。日常生活が不可能なほど見えないわけ でもないが、免許は裸眼では取れないだろう。 ふと視線を上げた彼女は、遠くに、良く見知ったシルエットを発見した。ど んなに離れていても、ボヤけて見えても、その雰囲気、歩き方や仕草だけでわ かる。間違うはずもない。あれは眞一郎、彼女の大切な恋人だ。眞一郎は文房 具屋から出てきた所だった。 比呂美が声をかけて近寄ろうとした時、彼の後にもう一人、文房具屋から出 てくる人影が目に入った。眞一郎はその人を待っていたようで、言葉を交わし ている。 姿形からすると、女性だ。細身で少し背は高め、髪は長い。プロポーション は抜群に良い感じがする。落ち着いた物腰を見ると、20代から30代といった所 だろうか。服装も、細かい所はわからないものの、地味で落ち着いたもののよ うだった。しっとりとした良い雰囲気を持つ女性は、遠目で見ても美人だとわ かるものだ。 (あの人… 誰?) 比呂美の心に不安の影が差した。 だが、それだけでは終わらなかった。眞一郎は…彼女の恋人は、その女性と 手を握りあって歩きだしたのである。 不安の影が真っ黒な闇になって、比呂美の心を覆った。心臓が早鐘のように 打つ。 (なんで? なんで? なんで――?) 頭の中を疑問と闇が駆け回り、身体の平衡感覚すら失われいく。 茫然と立ちつくしていた比呂美が、持っていたケーキの箱を取り落としてい た事に気付いたのは、10秒ほど後だった。 追ってはいけない。そんな事はわかっている。それでも比呂美は、その二人 を追わずには居られず、彼女は見つからないように少し距離をあけて尾行した。 そうせずにいられなかったのだ。 心が悲鳴を上げていた。眞一郎くんは自分を裏切る人じゃない、そう考えよ うとしつつも、この現実を見てしまったせいで、悪い事ばかりが頭の中に浮か ぶ。 久しく忘れていた自分の嫉妬心を感じ、自己嫌悪し、抑えようとする。でも、 それでも黒い感情が心の中から抜けきらないのだ。 辛かった。助けて欲しかった。だが、比呂美を助けられるはずの唯一の男は、 比呂美の前で、別の女性と手をつないで歩いていた。 二人は商店街から少し離れた、人気のない公園に入っていった。比呂美は心 の中に嵐を抱えたまま、やはりその後を追う。公園の真ん中、少し広くなった 噴水の横で、二人は見つめ合って言葉を交わしていた。 比呂美は木や物陰に隠れて、その場所に少しずつ近づいて行った。適当な木 陰から、彼女は二人を見続ける。会話の内容まではわからない。漏れ聞く女性 の声音は、綺麗なアルトだな、と思った。それがかえって憎らしく、憎いと思 う自分を、彼女は嫌悪した。 そして―― その女性が眞一郎にキスをし、二人はその後、しっかりと抱き合った。 比呂美の腰から力が抜けた。その場にペタンと座り込んでしまう。目からは 涙が溢れ、のどの奥から漏れようとする悲鳴のような嗚咽を、彼女は必死で抑 えた。幸いにも、その姿を植え込みが隠してくれていた。 地に落ちていた視線を上げてみると、隠すものとてない広場だというのに、 眞一郎の横には、もう誰もいなかった。彼は一人で、空を見上げていた。 (私…、私もう…) 彼女は必死で、その場を走り去った。瞳から滂沱と涙を溢れさせながら。 眞一郎が比呂美のアパートについた時、アパートには鍵がかかっていた。こ の時間、比呂美はいるはずなのに、と不思議がりながら、彼は合い鍵を使って 中に入る。 中は真っ暗で、カーテンも閉じられていた。それだけでなく、いつも綺麗に 整えられている部屋の雰囲気が、どこか暗く、荒れていた。 「比呂美?」 眞一郎は部屋の中に声をかけた。ごくわずかな衣擦れ、物音がする。彼は胸 騒ぎを感じ、電気をつけて部屋の中に入った。 「帰って」 弱々しい比呂美の声が、かすかに聞こえた。 「比呂美、いるのか?」 下には、いない。彼女はロフトベッドの上にいるようだ。信一郎は不安を感 じながら梯子を登った。 ロフトベッドの上では、比呂美が身体に布団を巻き付けて壁にもたれかかっ ていた。その瞳が暗い。泣いていたようだ。 「どうしたんだよ」 眞一郎が慌てた。これほど傷ついた様子の比呂美は、ほとんど見たことがな い。 「帰って…」 比呂美は弱々しく言った。 「帰れるわけないだろ。何があったんだよ」 「顔見たくないの。…合い鍵は返して。もうここに来なくていいから」 慌てる、どころの話ではなかった。別れ話になってしまっていた。 「比呂美」 「あの人と一緒にいればいいでしょう!」 比呂美が眞一郎をにらんだ。その瞳から、新たな涙があふれだした。 「あの人って…」 「公園でキスしてたじゃない。眞一郎くんの事、信じてたのに」 比呂美が顔を伏せる。寝具に、ポタポタと涙が落ちた。 「お前見てたのか?」 眞一郎の言葉は、比呂美の疑惑を肯定していた。 (間違いじゃ、なかった…) 心の闇が、いっそ自分を押しつぶしてくれればいいのに、と比呂美は願った。 「説明しづらいんだけど…」 「帰って。言い訳なんか聞きたくない」 比呂美が遮った。 「まいったな、言われた通りになっちまった…。あれはお前だ」 眞一郎がもしゃもしゃと頭をかいた。 「何言ってるのよ!」 「落ち着いて聞いてくれ。信じられないだろうけど、あれは未来のお前だ」 「そんなこと、あるわけないでしょ。馬鹿にしないでよ!」 比呂美が叫んだ。裏切られた上にこんな言い訳をされては、怒るなと言う方 が無理だった。 「本当なんだ。これを見てくれ」 眞一郎は、ポケットから2つのものを取り出した。 その1つは、100円玉。 「平成30年のやつ。今から7年後のものだよ」 比呂美に渡されたそれは、確かに平成30年と書いてある。それなりに使用感 もあり、模造品とは思いにくかった。だが、これだけでは何とも言えない。 「それから、これ。未来のお前から預かった、今のお前への手紙。中は見てな い」 白い封筒を、眞一郎は比呂美に手渡した。 比呂美は葛藤の渦巻く顔でそれを受け取り、彼女にしては乱暴に封を開けた。 『16歳の湯浅比呂美へ 自分の字だから、わかると思います。信じられないかもしれないけれど、私 は、未来の湯浅比呂美です』 そこから始まる手紙は眞一郎を借りる事を詫び、彼を疑わないようにと書か れた上で、自分しか知りようのない事がいくつか書いてあった。 比呂美は読み終え、呆然とするしかなかった。どうやら眞一郎の言う通り、 未来の自分だと判断するしかないようだった。 手紙を何度も見返し、7年後の100円玉をしばらく見つめた後、比呂美は言 った。 「ごめんなさい…」 「いや、俺も悪かったと思うし。こんな事が起こるとは思ってもみなかったか ら」 「眞一郎くんが、知らない女の人とキスしてると思って…」 「俺、お前以外の人とキスなんかしないよ」 「そう…だよね…」 比呂美はうつむいた。 「私…バカみたい…」 「未来のお前、綺麗だったよ」 眞一郎は言った。比呂美を見つめるその目は優しかった。比呂美が信じる男 の目であり、その目はいつもと違いはなかった。 それなのに、比呂美の心のなかに、少しだけ嫉妬が生まれた。相手は自分な のに。 「ごめんね、私まだ綺麗じゃなくて」 眞一郎が吹き出す。 「自分に嫉いてどうするんだよ。俺は、どんなお前だって好きなんだから」 「私がおばあちゃんになっても?」 疑い深そうに比呂美が言う。 「お前がおばあちゃんになっても」 眞一郎は優しく言い、比呂美の身体を抱きしめた。 「愛してるよ、比呂美」 「うん…」 比呂美は、やっと安心して、眞一郎に身体を預けた。 ◇ 「眞一郎くん、つきあってくれてありがとう」 公園の広場、噴水の横で、20代半ばの"比呂美"は、眞一郎に礼を言った。 「俺、何もしてないし…」 「ううん、とっても懐かしかった。10年後はだいぶ変わってしまったから」 比呂美は微笑んだ。 「比呂美…。聞いていいかわからないけど、10年後、俺は――俺達はどうなっ てるんだ?」 眞一郎は、少し迷いながら聞いた。未来の事を聞くのはタブーなんだろうか。 「たぶん、私がここに来た事で、私が帰る未来と、この世界の未来は分かれる と思うの。だから…」 その迷いを、比呂美は理解したらしい。話してもあまり意味はない事を、含 めてきた。 「そうか…」 眞一郎は少し安心していた。それなら聞いても大丈夫だ。 「そっちの未来では、俺はどうなったんだ?」 あらためて未来の比呂美に問い直す。 「…。子供が、この前立てるようになってね」 「それって」 眞一郎の目が見開かれる。 「うん。男の子。眞一郎くんに良く似てるわ」 比呂美は、照れたように笑った。 「そろそろ、お迎えみたい」 20代の比呂美が、天を仰いで言った。 「今の眞一郎くんとは、もう二度と会えないのね」 空を見上げながら、比呂美は遠い目で、物思いに耽っているようだった。 「ああ…」 その様子は、今と変わらない。眞一郎の大好きな比呂美の表情だった。 「今の私を、大事にしてあげてね。私って間が悪いから、一緒に居るところを 見かけて、落ち込んでるかもしれない」 「…あるかもな」 そのあたりは、色々と苦労をしてきた眞一郎だった。 「ねえ、目を閉じて」 比呂美の頼みに、眞一郎は素直に従った。 別れの時が来る。現在の比呂美と別れるわけでない、それをわかってはいて も。迷い込んだ未来の比呂美と別れるだけだというのに、比呂美との別れは、 眞一郎にとって辛い出来事だった。 唇が重なった。 比呂美の腕が、背中に回される。目を閉じたまま、眞一郎はしっかりと抱き かえした。 比呂美の頬を流れた涙が、二人の繋がった唇の端に伝わった。 唇の感触は唐突に消え、眞一郎の腕が空を抱いた。 天女は必ず、天に帰る。 わかっていることなのに、眞一郎は自分の涙を止める事はできなかった。 「ブラックな比呂美が見たい」というリクエストに 難しいんじゃないかな、と返してしまった事を反省し、勢いで書きました。 お題があれば、無理と言う前に応えなくてはと。 ブラックもいい、嫉妬もいいけど、比呂美をあまり虐めたくはなくて。 まあ、相手の女も比呂美なら大丈夫だろうと。それだけの駄ネタです。 ありふれたネタですが、情景としては美しいんじゃないかな。 自由に時間旅行ができる、ではなく、時間の裂け目に落ちちゃった、ぐらいで。 どうやって帰ったんだとか、ここらへんの煮詰めは放置で。それが主眼ではないし。 ttの世界観で、時間旅行ネタ入れるのが反則なのはわかっています。 ですが、これぐらい許してほしいなー、とは…。
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true tears SS第十八弾 第十三話の妄想 比呂美エンド 前編 「そう? ありがとう」「こんな自分、嫌なの」 第十三話の予告と映像を踏まえたささやかな登場人物たちの遣り取りです。 妄想重視なので、まったく正誤は気にしておりませんが、 本編と一致する場合もあるかもしれません。 比呂美エンドにしてあります。 本編が最終回ですので、妄想も最終回になります。 「置いてかないで」 比呂美の口から洩れた言葉はむなしく響いた。 眞一郎は振り返る事無く去って行く。 比呂美は右足の下駄を脱いだまま立ち竦んでしまう。 奉納踊りが終わったために人影は少なくなりつつある。 比呂美は歩こうとせずに硬直したままだ。 「比呂美、どうしたの?」 「何があったんだ」 仲上夫妻が慌てて駆け寄ってくれた。 手には眞一郎が踊りで使用していた笠と刀を携えてだ。 「あの、踊り手たちだけで打ち上げはあるのですか?」 比呂美は俯いたままだ。 「なくはないな。眞一郎がそう言ったのかい?」 「……はい」 比呂美が顔を上げると涙がこぼれてしまう。 「眞一郎がそんなことを……」 眞一郎母は眉根を寄せてしまった。 「それからどこかに行きました……」 もう立っているのもつらくて塞ぎ込んでしまいそうだ。 あの幼い頃の夏祭りのときのように。 「比呂美、うちに戻りましょう。 それから着物を脱いでから休んだほうがいいわ」 「俺がアパートまで車で送るとしよう」 仲上夫妻は比呂美への対処を考慮してくれている。 「そんなことまで……。 これからお片付けをしなければなりません」 比呂美は下駄を履き直す。 「比呂美は私たちの娘なんだから甘えてもいいのよ」 「体調がすぐれないなら、明日は学校を休みなさい」 仲上夫妻の優しさに触れて、比呂美の涙はさらに増えてゆく。 * 眞一郎は踊りの成果と絵本の完成を伝えたくて乃絵のところに赴く。 踊っている最中に乃絵を見つけた。 それから瞳に捕らえると、動きの切れが増していった。 乃絵がいる場所といえば学校しかない。 鶏小屋かあの木だろう。 眞一郎は花形衣装のまま駆けている。 さっきは比呂美に嘘をついてでもだ。 あの木が視界に入ると、赤いものが落下するものが見えた。 両手をしきりに動かしているようにだ。 眞一郎は慌ててその場所に行く。 「乃絵」 身体が埋まっているので、眞一郎は外に出す。 雪を払ってあげる。 「私、眞一郎がいなくても飛べたよ」 乃絵は満面の笑みを浮かべている。 「俺がいなくても飛べた。 俺が下で支えなくてもだ」 乃絵がどの高さから飛び降りたかはわからない。 何を覚悟しているのかもわからない。 「私ね、決めたの。 眞一郎を好きにならないという呪いを掛けるって」 乃絵が以前に三代吉に掛けたらしい。 だが三代吉には効果がなかった。 「比呂美に何かを言われたからか? そんなことまでしなくてもいいんだ。 でも俺は比呂美のところに飛んで行きたい」 呪いなんて存在するわけがない。 何かの暗示だろう。 乃絵が泣けなくなった原因も似たようなものかもしれない。 だが乃絵とは別れなければならない。 昨晩もそうしようとしたが、できずに乃絵とも話せなかった。 「そうね。湯浅比呂美はあなたが好き。 私は眞一郎よりも純のそばにいてあげたい」 「あいつと何かがあったのか?」 急に出て来た名前に眞一郎は戸惑ってしまう。 「眞一郎よりも大切なの。 たとえお兄ちゃんであってもね」 乃絵は揺るぎのない決断を瞳に湛えている。 「でも絵本だけは見て欲しい。 明後日の放課後に」 明日は比呂美のために使いたい。 「いつもの鶏小屋で待ってるね」 * 比呂美は体調を崩してしまった。 眞一郎のことだけでなく、今までに無理を重ねていたものが耐えられなくなった。 精神的な負担があり、今日だけでも学校を休むことにした。 昼を過ぎた頃にチャイムが鳴る。 出てみると眞一郎母がいる。 事前に学校を休むのは報告していた。 だがわざわざ来てくれると比呂美は思っていなかった。 手にはケーキ屋の箱を提げている。 「身体は大丈夫かしら?」 心配そうに訊いてくれていた。 「大分ましになりました。中に入ってください」 「お邪魔するわね」 眞一郎母は比呂美のアパートに一歩を踏み入れた。 初めてであり比呂美はますます緊張してしまう。 「紅茶を用意しますね」 「そう? ありがとう。このケーキもお願いね」 眞一郎母から比呂美はケーキを受け取る。 「コートはそちらに掛けていただければ」 比呂美が提案すると眞一郎母は応じてくれて、テーブルのそばに座る。 「良い部屋ね、片付いているし」 眞一郎母はまわりを見渡している。 「いろいろと提供していただいて感謝しています」 比呂美はショートケーキを皿に移す。 箱には四つとも同じ苺だ。 出すときに迷わないように配慮してくれているのかもしれない。 「お金のことは心配しなくてもいいわ。 話は変わるけど、あの写真はどうしたのかしら?」 眞一郎母の言葉に比呂美は固まってしまうが、すぐに動く。 本棚にあるアルバムを持って眞一郎母のところに訪れる。 「ごめんなさいね」 軽く縦に首を動かしてから、ページをめくっている。 「あの写真を形見の同じ写真のところに挟んであったわ」 声質はかすれそうではあったが、最後まで言い切っていた。 「そばに入れる場所がなかったので」 「そうね。懐かしくなってきたわ。あの頃のことを思い出して」 眞一郎母の表情を眺めながら、比呂美はケーキと紅茶を並べる。 眞一郎母は比呂美のほうに向けてアルバムを開く。 「え?」 意図がわからずに洩らした。 眞一郎母は悠然と紅茶を口に運ぶ。 「眞一郎から連絡はあったのかしら?」 「まだです。あったとしても何も答えられないですし……」 こちらからする気にもなれずに保留したままだ。 乃絵のほうに行くなら、はっきりと伝えて欲しい。 「あれから眞一郎は帰宅して比呂美のことを心配していたわ。 私たちは比呂美の体調不良だけは伝えておいた。 まあ、眞一郎から何かしてくるでしょう」 比呂美母は余裕があって、ショートケーキをフォークで切り取る。 比呂美は見習って紅茶だけでも飲もうとする。 そういえば食欲がなくて食パンを一枚だけしか口にしていない。 「私から何もしないほうがいいのですか?」 比呂美は怪訝な顔をしている。 「今日、比呂美は学校を休んだので、明日までは待ったほうがいいかもね」 「もともと何をしたらいいかわかりませんし」 比呂美は自分ができることをすべてしてしまった。 乃絵にそっとして欲しいと言い、眞一郎にはそれを伝えた。 曖昧な返事を残されて眞一郎は去った。 「少し落ち着いてきたようね。 状況を整理してみましょうか? せっかくだから比呂美の形見の写真を使ってね。 まずは比呂美が出て行くときに私の気持ちがよくわかったと言っていたから、比呂美は私。 眞一郎はあの人。 でもあの人は比呂美のお母さんが好きかもしれないということね」 眞一郎母は昔の四人の関係になぞらえていた。 比呂美はその解釈に頷いていた。 「比呂美のお母さんが石動乃絵」 眞一郎母に真正面から覗かれると、比呂美は驚愕して俯いてしまう。 「知っておられたのですか?」 「眞一郎が踊り場に女の子と一緒にいたのを、その場にいた方々から聞かされているからね。 一度目は勝手に入って来たようだけど、二回目は眞一郎が連れて来たようなの。 朝にあなたが急にどこかに行ったから、そばにいた愛ちゃんに教えてもらって、 ようやく女の子と石動乃絵が一致したわ」 田舎社会であるがゆえに情報がすぐに届いてしまう。 隠されることなく関係者の耳に入ってしまうのだろう。 「眞一郎くんは石動乃絵のために踊っていたのですね。 羨ましいな……。 あのときに遮らなかったら、私が石動乃絵のようになれたのかも」 あの海岸でマフラーを掛けてあげて、眞一郎に花形の話をしようとした。 だが眞一郎が何かを言おうとしたときに、比呂美は石動乃絵のことで遮った。 「比呂美も踊り場に行っておけば良かったわね」 眞一郎母はそっけなく返した。 「その後に世間体があるから、一緒に歩かないで欲しいと言われましたが」 かすかに睨んでしまった。 「でも好きなら行ったほうが良かったかもしれないわ。 そうすれば私が否定しようとも、世間は認めてしまうし。 昨日の朝だって、比呂美が眞一郎に花形の衣装を着せるときに、冷やかしがあったでしょう」 まったく動じずに平然と返されてしまった。 比呂美は眞一郎母の懐の広さを認めてしまう。 「でも眞一郎くんに、踊りを見に来ないほうがいいと言われましたが、私は行きました」 あのときの眞一郎の言葉を信じられなかったし、信じたくなかった。 「そこまで言われていたのね。 てっきり眞一郎は比呂美のトラックを自転車で追い駆けるくらいに、 好きだったと思ったいたのにね」 眞一郎母は落胆するほどに、比呂美との交際を認めてくれているのだろう。 「私もそう思っていたのですが、違ったようです……」 全部、ちゃんとするからと眞一郎は言ってくれていたのに、あまりしてくれていない。 「ねえ、怒らないから眞一郎とのことを教えて欲しいな。 相談に乗れると思うけど」 眞一郎母は興味深げに訊いてきた。 「私の初恋が眞一郎くんで、仲上家に来たのもそれが理由です。 いろいろあって他の男の人、バイクの人と付き合うようになりました。 おばさんと喧嘩してその人のバイクに乗っているときに事故に遭いました。 眞一郎くんは付き合っている石動乃絵とタクシーに乗って来てくれました。 そのときに眞一郎くんは私を抱き締めてくれました。 彼女の石動乃絵の前でしたが、私は眞一郎に甘えるわけにはいかないので、 自立するために引っ越ししました。 そのときに自転車で私を追って来て、全部ちゃんとするからと約束してくれました。 一週間後にこの部屋に来てくれたときに合鍵を渡して、私のほうからキスを…… 祭りときには石動乃絵にそっとして欲しいと言って、それを眞一郎に伝えました」 明確に語ろうとしたが、とても恥ずかしかった。 一区切りごとに眞一郎母は首肯していた。 「比呂美のほうが積極的のようね」 眞一郎母の一言の感想で比呂美は頬を染めてしまった。 「ふしだらですよね」 何度か言われたことがあった。 「そんなことはないけど。 何だか一人相撲をしているようね。 比呂美が逃げれば眞一郎が追い駆ける。 比呂美は振り向いて欲しくてキスしたり。 強引に眞一郎と石動乃絵との関係に入り込んだり。 それと愛ちゃんに、彼女は私と言ったらしいし」 眞一郎母が諭すように一つずつ整理してくれた。 「でも眞一郎くんとは両想いで、やっとわかり合えたと思っています。 眞一郎くんはなかなかちゃんとしてくれないし……。 私のほうがバイクの人と別れて、ちゃんとしているようで……」 比呂美は憂いを湛えた瞳で眞一郎母を見つめる。 「比呂美は本当にいろいろ考えているのね。 私のように嫉妬に狂っているわけではないようね。 比呂美にあの話をしてから、私自身も信じてしまったの。 だから比呂美のお母さんの写真を切り取ってしまったわ。 焼いたのは誰かに私の罪を見つけて欲しくて。 比呂美が家出してから、あの人に白状して話し合ったわ。 比呂美は眞一郎と話し合ってみるといいわね」 写真の真相を今更ながら重苦しく語ろうとしなかった。 眞一郎と比呂美の関係を良くするための材料にしてくれている。 比呂美は優美に微笑している比呂美母を見つめる。 「あなたのお母さんはずっとお父さんを見ていたわ。 あの人はお母さんを好きだったときもあったかもしれないけど、今は私だからいいの。 比呂美はもう少し焦らないほうがいいわね。 眞一郎は追い詰まれると逃げる癖があるのよ。 例えば東京の出版社からの封筒が来たときがあったでしょ。 そのとき眞一郎はご飯を一気に食べてしまったわ。 だから比呂美は余裕を持って接しればいいと思う。 残りのケーキが二つあるので、食べながら話してみればどうかしら?」 ずっと比呂美を憎んでいたことがあったと思えないほどに、適確に述べていた。 こんなに息子の反応を読めているなら、心強い。 「今度はそうしてみます。 あまりこちらから訊かないで、眞一郎くんの言葉を待ってみます」 今まですれ違っていたのは、比呂美から一方的に切っていたからかもしれない。 『雷轟丸と地べたの物語』を見つけたときも、眞一郎は試合のことを気にしていた。 あのときもう少し嫉妬せずに立ち止まっていれば良かったかもしれない。 「こういうふうに娘の恋の話をするのが楽しいとは思わなかったわ。 それと眞一郎と付き合ったからって、将来のことまで考えなくてもいいから。 普通の高校生の恋愛くらいにしておいてね。 それとキスくらいに留めて欲しい」 最後には眞一郎母に釘を刺されてしまった。 「そこまでは考えていません。 まずは眞一郎くんと接する機会がないと」 「眞一郎がどうするかが気になるわね」 眞一郎母の思考に比呂美は深く頷いた。 今ごろ眞一郎は五時間目の授業を受けているだろう。 比呂美が休んでいるのをどう思っているのだろう。 「いい顔をしているわ、比呂美。 そういう姿でいてくれたら、相性が悪いと言えなくなるわね」 「おばさんがこんなに親身になっていただけると思ってもみませんでした」 「でもね、私ができるのはここまでよ」 「わかっています」 これからどういう結果になろうと受け入れる覚悟が芽生え始める。 もともと乃絵と敵対するべきではなかった。 戦うべきなのは己であると比呂美は、やっと気づいたのだ。 * 今日、比呂美は学校を休んでいる。 授業中に何度も比呂美の席を眞一郎は見てしまった。 原因は眞一郎であるのを自覚している。 あの奉納踊りの後に比呂美を放置してしまったからだろう。 帰宅後には眞一郎母から比呂美の体調不良を教えられただけだった。 あの場にいて遠くから見ていたはずなのに、眞一郎を責めようとはしなかった。 それが眞一郎の心を傷つける。 比呂美は一人の女性であり家族でもある。 それなのに学校を休みほどまでに身体を壊させてしまった。 昨日の乃絵の飛び降りの責任の一端は、眞一郎にもあるかもしれない。 放課後になると生徒たちは教室を出て行く。 まばらになると三代吉が眞一郎の横に来る。 「湯浅比呂美はどうしたんだ?」 今まで訊こうとしなかった。 いつもならホームルームの後にでも話し掛けていた。 「体調不良らしい。昨日の祭りで疲れたのかもしれない」 「お前のせいかもしれないな。 愛ちゃんから聞いたが、湯浅比呂美はお前の彼女だと言ったらしい。 そこまで言わせておいて、何で湯浅比呂美は休むんだ」 三代吉はすごんできて、襟首を掴んできそうだ。 「ここまで苦しめる結果になるとは予測できていなかった。 でも乃絵に会いに行くのを比呂美に言えるわけがないだろ」 比呂美が好きだから、乃絵のためにしていることを知られたくはなかった。 「俺なら言ったな。 お前の嘘がわかったから、湯浅比呂美は身体を壊したのだろ。 そんなことをされれば百年の恋が冷めてもおかしくない」 三代吉は左手で眞一郎の右肩に手を置いて軽く掴む。 「やはりまずいよな。 でも乃絵のためにやらねばならないことがある。 これだけは比呂美に何を言われようと成し遂げなければならない」 絵本と踊りは乃絵によるものだから、今度は乃絵のために尽くそう。 方法はわからないが、乃絵の涙を取り戻してあげたい。 「花形なのに今川焼きを食べていたときと違うようだな。 お前のやりたいようにすればいいさ」 三代吉は肩を二度だけ叩いた。 「これから比呂美のところにお見舞いに行こうと思う」 「そっか、気落ちしたら店に来てくれ。 おごりはしないが」 「ひどいな、そうならないようにしよう」 眞一郎は立ち上がり歩こうとすると、三代吉は白い歯を見せてにやける。 * 夕方になると、誰かがチャイムを鳴らしてくれた。 比呂美は朋与かもと思い、比呂美は扉を開ける。 「話があるんだ」 眞一郎がいて、いきなり本題に移りそうだ。 「せめて中に入って」 比呂美は眞一郎を導く。 眞一郎にとっては二度目の訪問だ。 勝手にコートを掛けてテーブルのそばで正座している。 「比呂美、身体はどう?」 か細い声だった。 「もう大丈夫よ。今までの疲れが溜まっていたからかも」 比呂美はケーキと紅茶の用意をする。 「このケーキはおばさんが買って来てくれたものなの」 比呂美が眞一郎のために出す。 「先に来ていたのか……」 眞一郎は顔を赤らめる。 「いろいろと相談に乗ってもらえたから、眞一郎くんが私に話して欲しい」 比呂美は紅茶を口に運んで落ち着かせようとする。 眞一郎母がしていたようにだ。 「奉納踊りの後には乃絵のところに行っていた。 踊りの成功と絵本の完成を伝えたかったんだ。 でも比呂美に乃絵の名前を出すのを控えたかった。 三代吉に言われた。 あいつなら本当のことを伝えていたと」 眞一郎は肩を落として悔いている。 「私も眞一郎くんの前であの人の名前を出すのを控えていたわ。 同じかもしれないわね。 こんな自分、嫌なの。 石動乃絵に嫉妬して、眞一郎くんに依存するかのように頼ってしまっていて……」 冷静になろうとしても、感情の吐露を避けられなかった。 眞一郎が別れ話をしようとしていたのではないと、安心できたから。 「俺もあいつに嫉妬していた。 コートの中に入って比呂美を守ることはできそうにない。 あの行為を見せ付けられて、試合を見るのをやめていた」 「見ていたの、試合?」 「入り口のあたりでこっそりと。 あいつが来ているから、あまり会いたくないし」 「でも眞一郎くんにあんなことをしてもらおうと考えていないわ。 あれはあの人くらいにしかできないし。 私には眞一郎くんが自転車で追い駆けてくれただけで充分だから……」 本当は純に感謝をしていて、眞一郎くんがいなければ惚れるかもしれなかった。 だが比呂美のためというよりも乃絵のためであり、交換条件を成立させたいからだろう。 「こけたけどな」 「私もだよ」 ふたりしてにこやかに笑う。 「他に話さなければならないのは、乃絵のことなんだ。 乃絵は木から飛び降りてしまった。 幸いに雪のおかげで無傷だったが、何か思い詰めているようだ。 だから俺の絵本である『雷轟丸と地べたの物語』で励ましてあげたい」 眞一郎が一日を置いたのは比呂美の許可をもらうためであった。 賛同を得られなくてもこれだけは成し遂げようとは考えている。 「眞一郎くんの気持ちがわかったから、嫉妬をしなくてもいいし。 それに飛び降りた原因は私にもありそう。 そっとしておいてと言ってから、私は泣いてしまったの。 きれいな涙と石動乃絵は言ってくれたわ。 私が逆の立場なら言えそうにない……」 乃絵に負けているのは心の広さだろう。 理解に苦しむ行動をしてきて喧嘩をしたこともあったが、根は悪くないのかもしれない。 「絵本は比呂美のも描いているから、もう少し待っていて欲しい。 乃絵とのことが終わらないと完成できそうにないから」 「絶対に待っているから。 それと私はあの人と別れていて、もう連絡や会うこともないと思うから」 あの一枚絵だけではなくて、乃絵のように絵本があるとは考えていなかった。 純とはきれいに別れてから眞一郎に教えるつもりだった。 乃絵が家出したときには、純からの連絡で眞一郎に伝えていたので、 関係が継続しているようなものだった。 「別にあいつと会ってもいい。 比呂美が家出したときにバイクに乗せてもらうほどに信頼をしているのだろ。 乃絵の事情はわからないので、あいつに会おうと思う。 電話番号を教えてくれないか?」 眞一郎の判断に比呂美は驚いてしまった。 完全に決別しようと考えていたからだ。 「わかったわ。教えるね」 比呂美は携帯電話を出して、眞一郎に見せた。 「あのふたりがいなかったら、俺たちはずっとあのままだったと思う」 「そうかもしれない。私は眞一郎くんに頼ってばかりだった。 見つけて欲しかったのではなくて、自分で光の方向に歩まなければならなかったのよ」 もう比呂美は置いてかないでと眞一郎に言わないように決意する。 あの言葉が自分を拘束していただけだった。 解放すれば今の眞一郎を見つめ直すことができそうだ。 (後編に続く) あとがき このSSを書いているときに、チューリップ新聞の三号の更新がありました。 私の考察と一緒の部分があって嬉しくはありますが、最終回の放送後に掲載して欲しかった。 第十一輪までの解釈かもしれませんので、安心はできません。 第十二話の妄想は見事に外してしまいました。 比呂美と乃絵のどちらのエンドになるかわからないようにしたかったのでしょう。 比呂美が負けフラグばかりになっていたのが気掛かりです。 細かく推察すれば、眞一郎が乃絵への恋愛感情がなさそうで、 回想では涙と踊りと別れの言葉しかありません。 恋愛感情があるとしたら、告白やあの石の場面があるでしょう。 比呂美には踊りに来て欲しくないという発言がありましたが、 口元がアップする演出は嘘をつくときです。 第五話では海岸で比呂美が眞一郎の誘いを遮ったり、第九話では比呂美が着替えをするとき、 眞一郎母が比呂美をなじるときなどにあります。 よって眞一郎は比呂美と乃絵の鉢合わせを避けたかったのでしょう。 第十二話で眞一郎が比呂美を放置したのは、 比呂美に乃絵と会いに行くと言えなかったとしました。 放置された比呂美がその後にどうするかが気になっています。 仲上夫妻が視線を向けているので、あのまま介抱されるとしました。 片方の下駄だけで移動するのには、尺の都合上なさそうですし、 乃絵のところに行ったままの眞一郎がすぐに戻って来れそうにもありません。 学校を休んでいて眞一郎母が見舞いに来て、夕方には責任を感じた眞一郎が見舞いに来ます。 願望ですがあの切り取られた比呂美母の写真が比呂美の形見と同じ写真であって、 過去の四人と比呂美たちと対比させて、眞一郎母が語って欲しい。 そのときに比呂美母の顔が見られるという演出で、 死者への冒涜をなくしてくれるように祈っています。 乃絵については悩んでいます。 あの飛び降りの後に病院に運ばれるという解釈もできますが、後味が悪くなりそうなので、 無傷にしました。 後編では涙を流す場面を描いてゆきたいです。 できれば失恋ではないように検討しています。 ご精読ありがとうございました。
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【なんだ、もうフラれたのか?】 比呂美のバイト その2 「あの事故はアイツが悪いんじゃないか。あんな雪の日にバイクで二人乗りな んて、するほうがおかしいんだ。アイツが事故るのは勝手だけど、ちょっと間 違ったら、お前、死んでたんだぞ」 なんで、ここでまた4番が出てくるんだ。眞一郎は焦り、困惑していた。 二人の日々が壊れていくような不安が襲って来る。 「それでも、あの事故の責任は私にあるの」 比呂美の顔には、気後れも迷いも、欠片も存在していない。 「アイツが払えって言ったのか?」 「ううん。いらないっていわれちゃった。でも、そんなわけにいかないから」 「何十万もするんだろ。そんな、大変だよ。第一、部活はどうするんだよ」 「しばらく休むわ。今はそんなに厳しい時期じゃないから。まずはこの冬休み、 がんばってみる」 「でも…」 「もう決めたから」 こうなると比呂美の決心は動かない。それは引っ越しの時に学んでいる。 比呂美の様子は普段と変わらない。最近の、朗らかな比呂美のままである。 むしろサッパリしたような表情さえしていた。 だが眞一郎は、その日にした他の話を何も覚えていないほどショックを受け ている。 練習試合を体育館で見た時の…。試合中に嫌がらせされている比呂美を4番 が助けた、その時に感じたコンプレックス。それが克服もできず、風化もして いない事を、彼は悟った。 夕方遅くに帰宅した眞一郎は、酒蔵に向かった。仕事熱心な父は、夕飯で呼 ばれるまではここにいるからだ。 「父さん、比呂美の事なんだけど…」 「どうした。何かあったのか?」 父が作業をしながら応じてきた。 「あいつ、バイトするって言い出して…」 「それはまた、なぜだ」 さすがに驚いたようで、仕事の手を止めて、向き直る。 「事故で燃えたバイクの弁償をするんだって…」 「ほう…」 父は、なるほどな、とつぶやいた。 だが、帰ってきた反応は眞一郎の予想外だった。 「それは良い心掛けだ」 「反対しないのかよ!」 思わず叫ぶ。 「眞一郎。自分のした事に責任を取るのは、人として大切な事だぞ」 父の目が光る。真顔で眞一郎の目を見つめていた。 そんなんじゃない。比呂美が4番のために働くんだぞ。だが、眞一郎の思考 はどうしてもそこから抜けなかった。 「で、いつからだ」 父のいたって冷静な声に冷や水をかけられ、眞一郎は怒りのエネルギーを失 ってしまう。 「この…冬休みに働くって…」 「話はわかった。ただし、こちらも保護者として預かっている身だ。比呂美に はバイトを始める前に、こちらに話をしに来なさいと伝えてくれ」 「…。わかった、けど…」 納得いかない。どうしても納得できない。父にも、比呂美にも…。 「ところで眞一郎。お前はどうするんだ?」 父は不思議な事を言った。 「どうするって…?」 父は答えず、かすかに笑って作業に戻っていった。 「あーっ!」 真っ暗になった自室で、ベッドに身を投げながら、眞一郎はうめいた。 (比呂美が…。4番のために働く…) 頭の中はそればかりだ。4番への嫉妬が、眩暈すら起こさせるほどの勢いで 渦巻く。 握った拳が哀れな枕にめりこみ、ぼふっと音を立てる。 (自分に責任があるって言ってたけど、なんであいつなんかのために…) 比呂美にも事故の責任があるという事は、頭では理解していた。 問題は感情面なのだ。 自分の落ち度も相当にあった…いや自分の落ち度が原因とはいえ、比呂美を 4番に奪われそうになった時の焦りや嫉妬。その記憶が生々しく甦ってくる。 4番が悪い男であったかと言われると、単純にそうとは言い切れない。そん な事はわかっているのだ。 「俺はお前を許せないんだ」 4番が言ったのと同じく、眞一郎にも彼を許し切れない部分が残っていた。 バイク事故の一件もそうだ。あれでもし、比呂美が大怪我していたり、死ん だりしていたら。自分は4番を決して許さなかっただろう。 そしてもし、"バイクが事故っていなかったら"。 後日この事に気づいた時、眞一郎は戦慄を覚えた。比呂美はどうなっていた のだろう。自分はどうしたのだろう。それ以上考える事に抵抗と拒絶を感じて しまう。そんな最悪の展開も、ありえたのではないか。 悪夢そのものの想像が彼を責め苛み、実際に夜中にうなされ、飛び起きまで した。それから大した時間が過ぎたわけではないのだ。(そして比呂美が同時 期、同様の悪夢に泣かされていた事を、彼は知らなかった) それだけではなかった。4番の事を思い出す度に、その妹も記憶から出てく る。 (乃絵…) 気持ちがはっきりしないまま軽率な告白をしてしまい、深く傷つける事にな ってしまった少女。そして自分を導いてくれた少女。 乃絵ではない。乃絵ではなかったのだ。自分にとって本当に大切な女性は。 乃絵が誰か他の男と付き合うという想像は、ショックではあっても悪夢まで には至らなかった。うなされる事もない。祝福だってできるだろう。 だからゆえに、自分の告白の罪について、重い責任を感じざるを得ないのだ。 祭りは乃絵のために踊った。絵本も乃絵のために完成させた。それでもなお、 乃絵に対しての負債を返しきれていないと感じる自分が居る。 謝って済む事ではないと。だが、今となっては謝る事もできない。乃絵の傷 も、比呂美の傷もえぐるわけにはいかないから。 もう乃絵に対してできる事は何もない。もう何もしてはいけない。そして眞 一郎の正義感は、いつまでも疼いたままだ。 4番の事を考えると、どうしても乃絵の事まで強く思い出してしまう。 4番、乃絵、そのどちらもが眞一郎の精神に大きな負荷をかけていく。考え るほどに自信が失われていく。 (父さんは、なんで俺に"どうする"って聞いたんだ…) こんな、俺に。 「よお眞一郎。お前、何悩んでんだよ」 放課後、いつものように図書室に向かおうとする眞一郎に、三代吉が話しか けてきた。そのままうながし、人気の少ない廊下に移動する。 実は、三代吉が眞一郎の変調に気づいたのは朝である。だが、手助けの要る 事か、自然に解決する事か、様子を見ることにして、気が付かないフリをして いた。いらぬお節介をするわけにはいかない。 丸一日終わっても浮かない顔をしていたため、声をかけてみる事にした。三 代吉らしい配慮である。 「比呂美が…」 「なんだ、もうフラれたのか?」 探りがてら、軽口を叩いてみる。 「かもなあ…」 眞一郎は、妙に自信なさげな様子だった。 (やっぱりそうか) 三代吉の想像通りだった。眞一郎が突然しょぼくれる原因はそれぐらいしか ない。 それにしては比呂美の様子がおかしい。彼女は至って平穏そのもの、朗らか なままだからだ。 「なんだよそれ」 気のない感じの、ぼやけた答えをしておく。 「事故で燃えた4番のバイクを弁償するために、バイトするって」 ふーん、というのが三代吉の感想。これだけでは何がどうとも言えない。 「あんな奴のバイクなんかほっとけばいいのに。湯浅さん真面目だからなあ…」 一連の事件の渦中、三代吉は湯浅比呂美の本心を疑った事があった。だがそ れは今では解消している。 比呂美はポーカーフェースを保っているが、冷静な眼で良く観察していれば わかるのだ。4番とつきあっていると言われた頃の彼女と、今の彼女。身にま とう雰囲気が、内側から溢れる華が、全く違うではないか。 「俺、どうしたらいいんだろう…」 三代吉は盛大にずっこけそうになった。 (前々から思っていたが、なんでこいつは、湯浅比呂美の事には、こんなに自 信がないんだろう。アイツが今さら4番なんかに走るわけがないのに) 兄妹疑惑の件を知らない三代吉には、ちょっと積極的に押せば、あんな大騒 ぎする前に落とせてたじゃないか、としか見えない。石動乃絵に恨みはないが、 乃絵が出てきてややこしくなるまえに、決着はついていたはずだと彼は考えて いる。 「お前アホか。そんな事、考えなくてもわかるだろ」 「それがわからないから悩んでるんだろ」 「こりゃ、湯浅さん苦労するな…。あっちを励ましたい気分だ」 さすがに口に出た。仕方のない所である。 「おい…」 微妙な発言で、眞一郎が焦る。 「もういい、アホがうつる。じゃあな。俺、今日も"あいちゃん"でバイトすっ から」 三代吉はカラっと笑いながら背中を向け、校門に向けて歩きだした。 「おい、待てよ三代吉」 「ヒントはやったぞ。お前、それでも一応、旦那だろ」 (頑張れよ)三代吉は背中で手を振って、歩き去った。現状で自分に出来るア ドバイスはした、と判断していた。 本人は気づいていないが、実のところ、眞一郎には敵が多いのだ。 比呂美を奪おうと現れるライバルは、これから比呂美が美しくなるに従って、 どんどん強く、多くなるだろう。いかに比呂美が一途でも、一途さゆえの落と し穴だってある。比呂美に吊り合わなくなり、眞一郎が自滅する事だってあり えた。(三代吉は知らない事だが、一連の事件はまさにこれらの複合要因だっ たのだ) これぐらい自己解決できなければ、いずれ何らかの形で比呂美を失う事にな るかもしれない。 眞一郎は強くならなければならなかった。 今はそのために、守るべき所は守ってやり、突き放すべき所は突き放す。 ケンカの似合わない眞一郎だが、何らかの形で殴り合いも教えてやるべきか もしれない。汚い手段だって使わなければならない時もある。奇麗事で済む事 ばかりではないから。 それが親友たる自分の役割だと三代吉は考えていた。 「ヒントって…」 眞一郎にはまだわからない。考える事が増えただけだ。 だが、三代吉に大切な何かを渡された事、少なくともそれだけは、眞一郎も 理解していた。 -------------------------------------------------------- 比呂美のバイト編、第二話です。 いくつか補足を。 時期は12月半ばとなります。 たとえアニメ本編の公式設定で、最終回が1月だとされようとも、このお話は 12月半ばのスタートです。どうしても、です(笑) 眞一郎君、若干ヘタレてます(笑) が、仕方のない事だと思って下さい。 眞一郎君に4番、比呂美に乃絵というトリガーは、トラウマに近いものが ある事としています。 そのトリガーについて、お互いある程度察知してはいますが、傷の深さまでは 理解が及んでいない事とします。(トラウマというのは本人以外には その重大さが理解しにくいものです) この辺り、地の文に混ぜにくくて。 眞一郎がヒロシやママンを呼ぶ時、父さん母さんと、親父おふくろが混在します。 それは仕様です。 三代吉は、若干の不良経験のある、カッコイイ三代吉にしてあります。 最後に。この筆者、若干エロいですが、そこはお許しを。 エロパロスレ直行レベルまでは行かないと思います。たぶん。 乱文を読んでくださり、ありがとうございました。
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true tears 本戦出場キャラ一覧(対戦表) キャラ名 担当声優 本戦組 日付 一回戦対戦相手その1 一回戦対戦相手その2 安藤愛子 井口裕香 A02組 8月19日 小森霧@絶望先生 二見瑛理子@キミキス 湯浅比呂美 名塚佳織 E05組 9月4日 高町なのは@なのは シグナム@なのは 石動乃絵 高垣彩陽 H02組 9月18日 アンゴル=モア@ケロロ ラン@しゅごキャラ! 本戦出場キャラ一覧(データ) キャラ名 担当声優 一次予選 票数 被得票率 二次予選 票数 被得票率 本戦組 日付 安藤愛子 井口裕香 14組8位 333票 24.1% A02組 8月19日 湯浅比呂美 名塚佳織 17組4位 559票 35.5% E05組 9月4日 石動乃絵 高垣彩陽 10組4位 580票 36.1% H02組 9月18日
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年に数回ある『祭』と同様に、大晦日は仲上酒造にとっては書き入れ時である。 翌日に控えた新年の準備で、近隣の神社のほか、一般家庭からも大量の注文が舞い込む。 高校三年の眞一郎と比呂美は数ヵ月後に受験を控えた身ではあったが、 この日ばかりは家業を手伝わないわけにはいかなかった。 眞一郎は従業員たちに混じって配達に。 比呂美は眞一郎の母と共に、電話や店頭での応対に精を出し、忙しい年の暮れを送っていた。 そして、真冬の太陽が落ちはじめ、町中の新年の準備が終わった頃のことである。 眞一郎はようやく仕事から解放され、家に戻ってきた。 「ふぅ、疲れた~」 配達用の自転車を片付け、自室で仮眠を取るべく階段をふらふらと登る。 障子を開いて部屋に入ると、自らを操る気合の糸を切って、身体をベッドに倒れ込ませる眞一郎。 そのまま眠りに堕ちて行けば、ある程度の回復は出来るだろうと考え、瞼を閉じる。 だが、眞一郎の気配を追いかけるように階段を登ってきた足音に、その企みは敢え無く打ち砕かれた。 「眞一郎くん」 同じ様に仕事がひと段落した比呂美の影が、戸口から声を掛けてくる。 「……そっちも終わったのか?」 「うん。 注文の電話も打ち止めみたい」 そう言いながら、比呂美は眞一郎が突っ伏すベッドの縁に腰を下ろした。 「おばさんもね、おじさんに呼ばれて…公民館に行っちゃった」 視線を合わせないまま、比呂美は暗に、《今 この家にいるのは私たちだけよ》を告げてくる。 ポケットを弄り避妊具を取り出した比呂美は、眞一郎の視線の先にそれをちらつかせながら、 「しよ」と声を出さずに唇を動かした。 「ここでか?」 アパート以外の場所で『求めて』くる比呂美の積極性に、眞一郎は気圧されてしまう。 それに、今は体力もほとんど残っていないので、できれば夜まで待って欲しいのだが…… 「嫌ならいいけど」 煮え切らない眞一郎に向かって、比呂美はプイと横を向き、拗ねたフリをして見せた。 だがそれは、眞一郎の性格を計算しての行動である。 ……こういう態度を取れば、仲上眞一郎は湯浅比呂美の誘いを拒めない…… それを熟知してのアクション……恋人同士の遊びだ。 眞一郎もそれが比呂美の《サイン》であることは充分に承知している。 そして、彼女の望み……欲望を蔑ろにする選択肢は、仲上眞一郎の中には存在しなかった。 ………… 「嫌だなんて言ってないだろ」 比呂美の手首を掴んでコンドームを取り上げると、 眞一郎はそのまま、比呂美の身体を巻き込むように寝具へと組み伏す。 「ちょっと……いきなりは……」 本心とは真逆の言葉を紡ぎだす比呂美の唇を、眞一郎は「うるさい」と優しく囁いてからキスで塞いだ。 そして、この数ヶ月で熟練の域に達した指使いを屈指して、比呂美の性感帯を刺激しはじめる。 「……ん………くっ……」 眉間にシワを寄せながら、くぐもった嬌声を漏らし出す比呂美。 その姿が、慣れない労働でクタクタになっているはずの眞一郎の身体から、疲労を一瞬で吹き飛ばした。 次:ある日の比呂美・大晦日編2
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前:ある日の比呂美・豪雪編5 顔と顔を接近させると、眞一郎は自分の陰部をしゃぶっていた唇に、躊躇うことなくキスをする。 「!!」 想定外に見舞われた眞一郎の攻撃に、比呂美の心臓は肋骨の内側で跳ね回った。 自分が出した体液に口をつけることが、どれほど不快な行為であるかは容易に想像できる。 なのに…… 眞一郎はそれをしてくれた…… (……眞一郎くん……) 胸の奥が燃える、熱く燃え上がる。 ……ここがどこだろうと関係ない。 自分は今、この愛しい男と繋がりたい…… そんな牝として当然の欲求が比呂美を突き動かした。 「眞一郎くんっ!」 顔を離した眞一郎を再び押し倒そうと、比呂美は体重の全てを預け、寄りかかろうとした。 だが、正対した眞一郎の表情が、見る見るうちに面白おかしく歪んでいくのを目にし、気持ちが萎んでしまう。 「……あの……」 「う…… うええぇぇぇ……」 比呂美の口内から精液の味を受け取った眞一郎は、舌を目一杯に出して、嘔吐寸前という顔をしてみせた。 不味い、気持ち悪い、と自分の子種に罵詈雑言を浴びせてから、 呆気に取られている比呂美に向かって、「すまんっ!」と叫び土下座をする。 「……ちょ…ちょっと、何の真似??」 「こんな酷い味だったなんて知らなかったんだ。もうこんな滅茶苦茶はしない」 だから勘弁してくれ、と続けて、眞一郎は額を布団に擦りつける。 その滑稽な様子を見下ろしながら、比呂美は自分の性欲が収束していくのを感じていた。 同時に、頬を涙が濡らしていたことにも気づき、眞一郎の突拍子もない行動の意味も理解する。 (また気を遣わせちゃった…かな) 悲しくて泣いたのではない。 苦しくて泣いたのでもない。 眞一郎はそれを分かった上で、こんなピエロみたいなことをしてくれている。 油断するとすぐに、物事を大げさに捉えてしまう湯浅比呂美の心を薄めてくれる。 (ありがとね、眞一郎くん) ずっと一緒なんだから気楽に行こうぜ、と告げてくる眞一郎の後頭部に向かって、比呂美は内心でそう呟いた。 そして実際には、「じゃあ、私のも…もう舐めなくていい」とふて腐れたように言ってみる。 「えぇっ! ……いや、それは……」 跳ね起きた眞一郎は、ダメだ、それは困ると抗議の言葉を並べ始めた。 「私は《しちゃダメ》なのに、眞一郎くんは《したい》んだぁ」 悪戯っ子の余裕を取り戻した比呂美は、唇の端を吊り上げながら、また眞一郎を苛め出した。 不公平だなぁ、ずるいなぁ、と心にも無いことを言い立て、眞一郎にどうして《したい》のかを白状させようとする。 「お前、意外と根性悪かったんだな」 「嫌ならいいけど?」 もう舐めさせてあげないだけだから、とキッパリ言い切って、比呂美は満面の笑みを見せる。 敵わないと悟った眞一郎は、刹那の躊躇いを見せてから、恥ずかしそうに口を開いた。 「……舐めてる時の……お前の悶えてる姿を見るのが…好き……なんだよっ!……」 男の意地なのか、最後の方だけは語気を強めて、眞一郎は告白をする。 好きな女が気持ち良くなってるのを見て、満足したらおかしいか! その控えめな叫びを室内に響かせると、眞一郎は真っ赤に脹れた顔を俯けた。 「ううん……おかしくない。 ……嬉しいよ」 伏せられた視線を追いかけるように、比呂美の顔が回り込む。 「……比呂美…」 目の前に接近してきた表情は、真剣なものだった。 ふざけた気持ちなど微塵も無い、相手の心を想いやる顔。 「私もね…… 同じ」 そう柔らかに呟くと、比呂美は身体を眞一郎の胸元へと滑り込ませた。 次:ある日の比呂美・豪雪編7